自作小説「白虹、日を貫けり」 第35章 総理の息子
テーマは、ジャーナリズム、民主主義、愛国心。大正時代から終戦までの激動の時代を振り返りながら考える。
まずは、まえがきから第34章までをお読みください。
一九三八年九月
穏やかな昼時、龍一は、バンド(外灘)の岸から船が行き交う姿を眺めていた。美しい石造りの建物が並ぶ貿易の街、上海を象徴する場所だ。
今の龍一は、髪の毛を黒くして長袍(チャンパオ)と呼ばれる体を足下まですっぽりおおう男性用の中国服を着ている。自分は中国人になったつもりでいた。
白人のリッチーはやめざる得なくなった。たった今、「クラブ・ホワイトリバー」を売り払う契約をしてきたところだ。買ったは、イギリス人だった。
というのも、ここ三ヶ月、客足が急激に落ち込んだ。そして、その理由というのが、オーナーが実をいうと日本人であるということが噂として流れたからだ。噂は事実であり、否定しようもなかった。誰が、そんな噂を流したのか知る由もなかった。あの晩会ったチャーリーだとも思ったが、しかし、いずれこのことが知れ渡るということは覚悟はしていた。だが、こうも売上に響くとは思ってもみなかった。オーナーが日本人であることが問題だったのか、それとも、日本人でありながら、白人専用のクラブを経営していることに問題があったのか、いずれにしても、隠し事をしながら、人種差別的なことをしていた自らを今更ながら恥じた。
買い手は、それなりの高額で買ってくれた。イギリス人の新オーナーは、自分の経営下では、人種差別はしないと断言した。龍一が、なぜ日本人でありながら白人専用のクラブにしたのか、不思議がっていたが、龍一は理由を話さなかった。
龍一は晴ればれとした気分になっていた。また、新しいことをしようと。何をしようか、今度は中国人となり、中華料理店を経営しようかと。だが、そんなことをすればナイトクラブの二の舞になるかもしれない。
揚子江から吹き込む心地よい風を浴びながら、ゆっくりと考える。この同じ河は、あの南京の川岸につながっている。ふと、そんなことが発想として頭をよぎると龍一は、急に岸から離れたくなった。
「白川さん、お久しぶりです」
と目の前に若い青年の姿が、歳は二十代前半といったところだろうか。この男は、龍一を知っているようだが、龍一には誰か分からなかった。
「私は白川だが、君は誰ですかな?」
「覚えていらっしゃいませんか。隆文です。近衛の隆文です」
龍一は、はっと六年前の記憶が頭をよぎった。あの若き初々しい少年、近衛文麻呂氏の長男だ。確か、米国に留学し、名門プリンストン大学に入学したと聞いた。
「ああ、久しぶりだ。元気していたか。そうか、君は近衛家の嫡男、隆文君だ。しっかり覚えているよ。もうプリンストン大学は卒業したのかい」
龍一は、思わぬ人物との思わぬ再会に感激した。
「はい、今は日本に戻って父の秘書をしています」
父とは、内閣総理大臣の近衛文麻呂のことだ。
「しかし、どうして上海に」
と龍一がきくと
「あなたに会いに来るためです」
と隆文は言った。
「何だって?」
「ここでは何ですから、アスターホテルに行きましょう。今はそこに宿泊しています」
アスターホテルの窓からは、バンド全体の風景が眺められた。行き交う船、石造りの建物が整然と並ぶ姿など。
今、龍一と隆文がいるホテルの一室が情報機関の仕事場になっているようだ。
隆文は、ソファに座る龍一にお茶を差し出し、淡々と話を始めた。
「今、日本と中国は泥沼の戦闘状態に入っています。もう両国だけの問題ではなく、この大陸に利権を持つ欧米、とりわけアメリカとの関係が悪化していっています。近い内、衝突は避けられないでしょう」
龍一は、日本から持ってきたらしい緑茶をぐいっと飲んだ。隆文は話を続ける。
「アメリカにいた時は、非常に辛かったです。日に日に反日感情が増していき、あのルーズベルト大統領も日本を文明社会を脅かす存在だと演説しましたから。日本は平和を乱す人道の敵だと人々は呼んでいます。日本製品のボイコットなんかが起こってますし、新聞では日本軍にどれだけの中国人が殺されたかなど連日のように書かれています」
隆文の表情は、その辛い体験を表すかのように険しくなっていった。
「特に南京ではひどいことをしたようですね。捕虜や女性、子供を虐殺して、僕は友人から、ひどいことを言われました。日本人であることがまるで獣であるかのようにも思えてきました」
龍一は、ソファから立ち上がった。思い出したくないことが、また激しく脳裏によぎる。何も言わず立ち去ろうとした。
「白川さん、お願いです。父があなたを必要としています。日本に来てくれますか。総理である父の補佐となっていただけますか。そのことを頼みに上海まで来たのです」
隆文が呼び止めるように言う。
「そんなことを突然言われても、私が君のお父さん、総理である近衛閣下の補佐になれなど、とんでもないことを、私など何の役にも立たないよ」
龍一は、同じような台詞を五ヶ月前ほどに誰かに言っていたことを思い出した。
「あなたは、中国状勢に詳しい方です。また、新聞記者として欧米にもいらしていました。中国や世界情勢を分析する能力は大変優れています。いろいろな人脈もおありでいらっしゃいます。父もあなたのことをとても信頼しています。あなたなら、父を救え、父を説き伏せることが出来ると思います。父は今、大変な苦境にさらされています。軍部の暴走をいかにして止められるかが大きな重責としてのしかかっています。どうか助けてください」
と隆文は、まるで龍一の体に釘を打ち込むような勢いで話した。
「君とお父様、閣下の気持ちはよく分かったよ。だけど、私にも事情があって、どうしても、そんな大それた仕事は引き受けられないんだ。もっとふさわしい人を見つけてくれないか」
龍一は、跳ね返すように言い返した。
「白川さん、大西哲夫さんという方をご存知ですよね」
はっと思わぬ人物の名が、隆文から放たれた。龍一は沈黙した。
「元先輩でいらして、治安維持法で投獄され、今は網走刑務所にいます」
「網走」という地名を聞いてさらにはっとした。北海道の極寒の地にある刑務所だ。
「何だって、どうしてそんなところに」
思わず、口が動くのが止められなかった。
「大西氏は、政治犯の中でも札付きの存在ですから。かなり過酷な状態に置かれて、健康状態もかなりひどいと聞いています」
と隆文は淡々と話す。龍一は目から涙がこぼれそうになったが、隆文の前ではみっともないと思い必死に押さえた。
「今の父は、総理です。何なら大西氏をもっとましな状態におくこともできますよ」
と淡々と続けて言った。
何としたたかな、と龍一は隆文を見つめながら思った。
第36章へ続く。
まずは、まえがきから第34章までをお読みください。
一九三八年九月
穏やかな昼時、龍一は、バンド(外灘)の岸から船が行き交う姿を眺めていた。美しい石造りの建物が並ぶ貿易の街、上海を象徴する場所だ。
今の龍一は、髪の毛を黒くして長袍(チャンパオ)と呼ばれる体を足下まですっぽりおおう男性用の中国服を着ている。自分は中国人になったつもりでいた。
白人のリッチーはやめざる得なくなった。たった今、「クラブ・ホワイトリバー」を売り払う契約をしてきたところだ。買ったは、イギリス人だった。
というのも、ここ三ヶ月、客足が急激に落ち込んだ。そして、その理由というのが、オーナーが実をいうと日本人であるということが噂として流れたからだ。噂は事実であり、否定しようもなかった。誰が、そんな噂を流したのか知る由もなかった。あの晩会ったチャーリーだとも思ったが、しかし、いずれこのことが知れ渡るということは覚悟はしていた。だが、こうも売上に響くとは思ってもみなかった。オーナーが日本人であることが問題だったのか、それとも、日本人でありながら、白人専用のクラブを経営していることに問題があったのか、いずれにしても、隠し事をしながら、人種差別的なことをしていた自らを今更ながら恥じた。
買い手は、それなりの高額で買ってくれた。イギリス人の新オーナーは、自分の経営下では、人種差別はしないと断言した。龍一が、なぜ日本人でありながら白人専用のクラブにしたのか、不思議がっていたが、龍一は理由を話さなかった。
龍一は晴ればれとした気分になっていた。また、新しいことをしようと。何をしようか、今度は中国人となり、中華料理店を経営しようかと。だが、そんなことをすればナイトクラブの二の舞になるかもしれない。
揚子江から吹き込む心地よい風を浴びながら、ゆっくりと考える。この同じ河は、あの南京の川岸につながっている。ふと、そんなことが発想として頭をよぎると龍一は、急に岸から離れたくなった。
「白川さん、お久しぶりです」
と目の前に若い青年の姿が、歳は二十代前半といったところだろうか。この男は、龍一を知っているようだが、龍一には誰か分からなかった。
「私は白川だが、君は誰ですかな?」
「覚えていらっしゃいませんか。隆文です。近衛の隆文です」
龍一は、はっと六年前の記憶が頭をよぎった。あの若き初々しい少年、近衛文麻呂氏の長男だ。確か、米国に留学し、名門プリンストン大学に入学したと聞いた。
「ああ、久しぶりだ。元気していたか。そうか、君は近衛家の嫡男、隆文君だ。しっかり覚えているよ。もうプリンストン大学は卒業したのかい」
龍一は、思わぬ人物との思わぬ再会に感激した。
「はい、今は日本に戻って父の秘書をしています」
父とは、内閣総理大臣の近衛文麻呂のことだ。
「しかし、どうして上海に」
と龍一がきくと
「あなたに会いに来るためです」
と隆文は言った。
「何だって?」
「ここでは何ですから、アスターホテルに行きましょう。今はそこに宿泊しています」
アスターホテルの窓からは、バンド全体の風景が眺められた。行き交う船、石造りの建物が整然と並ぶ姿など。
今、龍一と隆文がいるホテルの一室が情報機関の仕事場になっているようだ。
隆文は、ソファに座る龍一にお茶を差し出し、淡々と話を始めた。
「今、日本と中国は泥沼の戦闘状態に入っています。もう両国だけの問題ではなく、この大陸に利権を持つ欧米、とりわけアメリカとの関係が悪化していっています。近い内、衝突は避けられないでしょう」
龍一は、日本から持ってきたらしい緑茶をぐいっと飲んだ。隆文は話を続ける。
「アメリカにいた時は、非常に辛かったです。日に日に反日感情が増していき、あのルーズベルト大統領も日本を文明社会を脅かす存在だと演説しましたから。日本は平和を乱す人道の敵だと人々は呼んでいます。日本製品のボイコットなんかが起こってますし、新聞では日本軍にどれだけの中国人が殺されたかなど連日のように書かれています」
隆文の表情は、その辛い体験を表すかのように険しくなっていった。
「特に南京ではひどいことをしたようですね。捕虜や女性、子供を虐殺して、僕は友人から、ひどいことを言われました。日本人であることがまるで獣であるかのようにも思えてきました」
龍一は、ソファから立ち上がった。思い出したくないことが、また激しく脳裏によぎる。何も言わず立ち去ろうとした。
「白川さん、お願いです。父があなたを必要としています。日本に来てくれますか。総理である父の補佐となっていただけますか。そのことを頼みに上海まで来たのです」
隆文が呼び止めるように言う。
「そんなことを突然言われても、私が君のお父さん、総理である近衛閣下の補佐になれなど、とんでもないことを、私など何の役にも立たないよ」
龍一は、同じような台詞を五ヶ月前ほどに誰かに言っていたことを思い出した。
「あなたは、中国状勢に詳しい方です。また、新聞記者として欧米にもいらしていました。中国や世界情勢を分析する能力は大変優れています。いろいろな人脈もおありでいらっしゃいます。父もあなたのことをとても信頼しています。あなたなら、父を救え、父を説き伏せることが出来ると思います。父は今、大変な苦境にさらされています。軍部の暴走をいかにして止められるかが大きな重責としてのしかかっています。どうか助けてください」
と隆文は、まるで龍一の体に釘を打ち込むような勢いで話した。
「君とお父様、閣下の気持ちはよく分かったよ。だけど、私にも事情があって、どうしても、そんな大それた仕事は引き受けられないんだ。もっとふさわしい人を見つけてくれないか」
龍一は、跳ね返すように言い返した。
「白川さん、大西哲夫さんという方をご存知ですよね」
はっと思わぬ人物の名が、隆文から放たれた。龍一は沈黙した。
「元先輩でいらして、治安維持法で投獄され、今は網走刑務所にいます」
「網走」という地名を聞いてさらにはっとした。北海道の極寒の地にある刑務所だ。
「何だって、どうしてそんなところに」
思わず、口が動くのが止められなかった。
「大西氏は、政治犯の中でも札付きの存在ですから。かなり過酷な状態に置かれて、健康状態もかなりひどいと聞いています」
と隆文は淡々と話す。龍一は目から涙がこぼれそうになったが、隆文の前ではみっともないと思い必死に押さえた。
「今の父は、総理です。何なら大西氏をもっとましな状態におくこともできますよ」
と淡々と続けて言った。
何としたたかな、と龍一は隆文を見つめながら思った。
第36章へ続く。
by masagata2004
| 2006-08-14 23:17
| 自作小説
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