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自作小説「ヨーソロ、三笠」 第3章 蛍の光

平和運動家の青年が、戦艦三笠に乗り込み、真の平和主義に目覚める。

まずは序章第2章をお読み下さい。

 まずは、甲板に上がった。ここは、船尾にある甲板で、これから行われる式典の会場となる場所だ。三笠は重量1万3千トン、全長130メートル、幅23メートルほどの大きさと入り口の表示板に書かれていた。
 ここで、スピーチと楽団による演奏会を行うそうだ。 それは、この戦艦三笠が、海戦に向かうため港を離れた時の様子を再現することだ。
 すぐに目に付くのは、高さが二メートルはある大きな砲台がどんと構えている姿だ。砲身が二本つけられている。多神の説明によると、これは三十センチ主砲であり、前後・左右に方向を変えることができるもので、砲弾の飛距離は一万メートルだという。
 そして、船尾甲板の先端には、旧日本海軍を象徴するかのような旭日旗をなびかせたポールが立っている。  
 この甲板の上は、「上甲板」という。式典の準備のためか、何人かの自衛官と楽隊員が、甲板に上がってきた。
 源太と多神は、上甲板を船首に向かって歩いていった。木目の甲板の床を歩いて、周囲を見渡す。これは蒸気船だったのか、大きな煙突が二本立っている。煙突を挟むように、煙突より高いティー字のマストが立っている。
 横を向くと、肩の高さほどの砲台がずらりと並んでいる。これは6インチ砲と呼ばれ水兵が直接操作して、船の横側から撃つものだという。
自作小説「ヨーソロ、三笠」 第3章 蛍の光_b0017892_23314564.jpg

 ところで、これはいつの時代の船なのだろうか、と源太は思った。
 丁度、煙突の真下に休憩室があった。多神に案内され、源太は入った。多神は、自動販売機からジュースを買って、源太に缶を渡した。
 源太は「どうも」と言って、缶の蓋を開け飲んだ。
「ま、まずはこの艦の歴史を要約したビデオを見て貰おう」
と目の前にあったテレビ画面のスイッチを押す。
 画面から「記念艦、三笠とは」というタイトルが表れ、解説番組が始まった。
 この船が建造されたのは、一九〇二年というから明治時代だ。当時の日本海軍が、その後起こる日露戦争に備えるためにイギリスに発注したものだ。
 日露戦争は、中国が遼東半島の旅順にロシアが要塞を建設し始めたことがきっかけだった。そこは、一八九四年の日清戦争の勝利で、日本が清国から割譲した土地だったが、それをロシア・フランス・ドイツの三国による干渉にあい、領土権を放棄させられ、その後、ロシアが清から租借した場所だった。そこから、ロシアの朝鮮半島への南下が考えられ、容認すれば、朝鮮半島にロシアの勢力が伸びる恐れがあった。
 日本は、旅順の要塞化を再三、やめるように通告したが、聞き入れられず、一九〇四年二月このことをきっかけに、日本はロシアに宣戦布告をする。
 日本軍が目指したのは、旅順港の閉塞であった。陸と海で総力上げてその年の末、多大な犠牲者を出した後、旅順を奪還させる。三笠は、その旅順閉塞作戦の中の大きな海戦であった黄海戦で活躍したという。
 旅順を封鎖された後、ロシアは、三十余隻からなるバルチック艦隊を西のはるか彼方のリバウから極東のウラジオストックへ向け出航させる。ウラジオストックにあるウラジオ艦隊と合流して、反撃に出ようというからだ。
 ならば、バルチック艦隊がウラジオストックに着くのを阻止しなければならない。そこで、三笠を旗艦とする連合艦隊は、待ち伏せ攻撃を行うこととした。
 
 一九〇五年二月二十日、三笠は長崎県佐世保港を出航。待ち伏せにおいては、敵がウラジオストックに向け、日本海側を通るか、太平洋側を通るかは不明であった。誤ると一大事になる。しかし、最短距離となる日本海側を通ると確信した連合艦隊司令長官、東堂平七郎大将は、日本海側での待ち伏せを決行する。
 その後、朝鮮半島沖の鎮海湾に停泊するが、その年の五月二十七日、対馬海峡にてバルチック艦隊とみられる艦隊が発見されたという通信を受けると対馬海峡に向かい、バルチック艦隊に接近。そこで、両艦隊は砲撃戦に突入する。
 最初に砲弾を撃ったのはロシア側であった。特に旗艦の三笠への砲撃は凄まじかったが、強靱にも耐え、そして、東堂司令長官の冷静な判断により、攻撃の態勢が整うまで反撃には出なかった。それは、丁字形戦法というフォーメーションを整えるためで、敵艦隊が縦列に攻めてくるのに対し、連合艦隊が横一列に対峙すれば、艦の前後にある主砲と右舷もしくは左舷側に備え付けれた砲台を使い攻撃ができる。敵側は、前方の主砲しか使えない形となる。
 午後二時、連合艦隊の砲撃が始まり、そのわずか三十分後に、敵艦は多大な打撃を受け、バルチック艦隊の旗艦であったスオロフを炎上せしめ、司令長官であったロジェストウェンスキー中将は負傷し指揮系統が乱れることとなった。
 その後、二日間に及び海戦は続き、旗艦スオロフを含め敵艦六隻を撃沈するに至り、見事にバルチック艦隊のウラジオストック行きを阻止できたのであった。連合艦隊側は船体への損傷と七百名近い死傷者を出したものの沈没した艦船はなく、圧倒的な勝利を挙げる結果となった。
 この勝利により、ロシア側には日本との交戦の意志が薄れ、結果、アメリカとの仲介によりポーツマス講和条約を結び日露戦争は終結する。
 日露戦争後、三笠は、一九二三年退役することとなったが、国民の多くから親しまれていたため、一九二五年記念艦として、この三笠公園に地面に完全に固定する形で展示物として残されることになったとのこと。
 
 ビデオは十分ほどであらましを、さらっと流したものだった。源太も中学や高校で習った歴史科目で日露戦争ぐらいは知っていたが、ロシアのバルチック艦隊、この三笠が率いた連合艦隊が日本海で交戦をしたことは初めて知ったという感じだ。もっとも、はるか昔のこと。こんな時代の武勇伝を取り上げ、今更何なんだと思った。
 休憩室を出ると、多神は、船首側の艦橋に案内した。階段を上って、艦橋を二つ上がっていく。
 一番、高い艦橋だ。真下が操縦室であったという。思わずそこからの風景に圧倒された。海が一望できる。ここは横須賀、東京湾の入り口だ。
 ふと、目の前の景色に目をやった。東京湾の入り口が一望できるのはいいが、艦の目の前には数百メートル先に海面を隔て建物の並ぶ埠頭のような施設がある。
「多神さん、あれは?」
と源太は指差して訊いた。ふと、気になった。
「ああ、あれは米海軍基地だよ。元は旧海軍の基地のあったところだ。海上自衛隊の基地は、あっち側だ」
と米海軍基地のはるか左側を指差して答えた。
 そうか、ここは米海軍基地の間近にあるのか。そして、その海軍基地には、近々、危険な原子力空母が配備される。
「この場所に東堂大将は立って司令を下したんだ。砲弾降り注ぐ危険な状態でありながら、微動だせずにな」
と多神がきりっとした表情になり言った。
「ふうん」
と源太はそっけなく言った。ま、日露戦争に勝利したのはいいが、日本は、その後、第二次大戦で負け、軍隊を持たない国になった。憲法でもそう定められたのだ。今になってはるか昔の功績、それも、帝国主義時代の覇権争いに加わって勝利したことを自慢して何が得だっていうんだ。
「今は、この艦は固定されているが、昔は、ここから出航の司令を出したんだ。ヨーソロって!」
「ヨーソロ?」と源太、聞き慣れない言葉だ。
「ヨーソロっていうのは、旧海軍用語で、出航せよっていう意味だ。水兵の間では了解という意味でも使われていた。今でも、隊員の間では冗談で使われてるけどな」
という多神が説明。
 次に、艦橋から階段を降り、上甲板より下の「中甲板」と呼ばれるところへ行く。



 そこは、天井が低く窓以外は陽の当たらないところで、先程、服を着替えたのと同じ階だ。上甲板と比べて一気に圧迫感を感じた。
 中は、展示室となっていて、旧海軍に関する展示物が並べられていた。模型、写真、絵画などだ。日本海海戦に関するものもあった。多神が、解説をしようとするのだが、いちいち見る気にもならず素通りした。源太にとっては、あまり興味をひくところではないし、はっきり言って無関係な別世界だ。
 そんな源太に多神は、
「これを持って、あとでじっくり読んでおけよ」
と展示室に置いてあったパンフレットを無理矢理手渡す。
「記念艦 三笠と日本海海戦」と題した五ページほどの薄い冊子だった。源太は、さっとズボンのポケットにパンフレットを四つ折りにして詰め込んだ。
 展示室を出て、廊下を通ると、上甲板と同じように砲台がずらりと並んでいた。
「よし、ここが最後に案内するところだ」
として連れられたのは、艦内で一番、時代を感じさせる場所だった。クラシックで重々しい戸棚が壁に備え付けられ、重厚なカーペットが敷かれている。また、様々な写真や調度品も置かれていた。まさに明治時代を思わせる。
「ここは司令長官室だ」
と多神は言った。
「司令長官がいたところ?」
と源太はあまりの豪華さに驚いた。だが、司令長官がいたところなら頷ける。また、そんな豪華な船室も、窓側に機関銃が備え付けられており軍艦としての機能をしっかりと見せつけている。
 壁には、大きな肖像画が二つかけられていた。一つは、源太も教科書で見たことがあり知っている明治天皇の肖像画だ。もう一つは、軍服を着た白髪の老人である。
「この人こそ、この三笠で艦長よりも偉かった連合艦隊司令長官、東堂平七郎大将だ。一八四七年の明治維新より二十年も前に薩摩藩士の子として生まれ、その後、イギリスに軍事を学び、日清戦争で戦艦艦長、日露戦争で連合艦隊の司令長官を務め勝利に貢献。この人なしに日本海軍は語れないのさ。そうだ、この艦の外にある公園の噴水の真ん中に銅像が立っていただろう。あれも東堂大将だ。後に東堂元帥と呼ばれることになったけどな。今ではもっぱっら戦争の神様と呼ばれるお方だ」
と多神が誇らしげに言う。
「戦争の神様? 何てことを言うんです。戦争に神様なんて、あるものか。戦争とは絶対、あってはならないものだ。あなたは、いったい何を考えているんですか」
と源太は思わず、かっとなり突っかかった。
「ああ、分かったよ。君のようなタイプの人間にはどうでもいいことなんだろう」
と多神が気まずくなったところをはぐらかすように言った。源太は、何だかバカにされた気分になった。
「多神さんはどうして自衛隊なんかに」
「俺は、この仕事に誇りを持っている。俺の家は、代々海軍にいて、国を守ることを使命としているんだ。俺の四代前に当たるひいひい祖父さんはな、この船で水兵をしていた。それ以後、一家で跡を継いでいるというわけさ」
とややむっとした表情で源太に言う。
「その一代目の方の意志を淡々と受け継がれているというわけですか、国を守るためとか、きれいごとを言って、人々の命を犠牲にする仕事を誇りに思うなんて、僕には理解できない。だいたいあなた達のような人は・・」
と源太は、熱っぽく反戦演説を始めようとした。いつも始まったら止まらなくなるものだ。すると、式典が始まるというアナウンスが流れた。
「おい、始まるぞ。行って来い。約束だろう」
と多神が源太の肩を叩いて言った。
 源太は黙った。確かに約束だ。
「これから水兵の役をするんだ。じっとするだけだが、そうだ、三笠の水兵らしく返事をしてみろ」
と多神がにっこりして言うので
「ヨーソロ」
と苦々しく答えた。ということで司令長官室から仕方なく上甲板に上がり式典会場に行くことにした。予定では、三十分程度で、源太のすることは、船尾側艦橋に上がり、式典中、ずっと立ったままでいればいいということだ。いわばお飾りの役割だ。
 一緒に自衛隊の水兵の人が式典会場を見下ろし並んで立つと言うことで、彼らに案内されて、自分の立ち位置へ行った。
 そこは、さっき行った船首側の艦橋とは真逆の場所で、回りの景色は公園と住宅街だ。真下が船尾の上甲板で制服を着た楽隊員が縦列して並んでいる。その回りを自衛隊関係者らしき人が座ってみている。
 また、艦の外の公園からも、物珍しさに式典の演奏会を眺める人々がずらりと。
 何だか、自分もこの艦の水兵となり出航しにいく気分だ。といっても、この船は動かない。海に浮かんでいるものではないのだ。選定は固められ岸に備え付けられているのだから。ま、そんな気分を一時的に味わおうというのか。
 式典の開会のスピーチが始まった。制服を着た士官らしき人が出てきた。
「皆様、お越しいただきありがとうございます。我々自衛官は、三笠の戦士達の意志を受け継ぎ・・・」
と数分ほどの挨拶文を読み上げた後に、
「これより、我が日本を近代国家にせしめた三笠率いる連合艦隊の日本海海戦勝利を記念する自衛隊の楽隊演奏を行います。ご存知の方もいっらっしゃると思われますが、日本海海戦でも軍楽隊が三笠に乗り込み、出港の時や航海中に演奏をいたしました。また、楽隊員は戦闘中には、負傷兵の看護をしたり水兵達と同様に砲撃を行うこともしました」
 さて、演奏が始まるということになったが、源太は、急いでポケットに入れたままの携帯電話を取りだし電源を切った。音楽の演奏中は常にそうすることにしている。一応のマナーだ。
 自衛隊の音楽隊が奏でる音楽は、いかにもという音楽ばかりであった。運動会なんかで聞いたことのある曲「軍艦マーチ」などの軍隊の士気高揚を目的とした曲調の音楽がだらだらと流れる。しかし、じっとしながら聞くには、やや苦痛でもある。生演奏だけにけたたましく響く。
 まあ、ロックやジャズのなかった時代には新鮮で気分が高揚するものとして当時の人々には聞こえたのだろうが。
 丁度、源太の位置から、噴水の真ん中に立っている東堂平七郎の銅像が見えた。銅像の後ろ姿が眺められる。
 さて、演奏は最後の曲になった。これで最後だということで、ほっとした。軍歌など源太には無縁の音楽だ。これが終わったら、さっさと目的地に向かわないと。
 最後の曲はなぜか、軍歌の曲にしては静かでなめらかな曲に聞こえる。そして、とても聞き覚えのある曲だ。すぐに曲名も分かった。「蛍の光」だ。
 あれ、これって軍歌だったの。「蛍の光」ってお別れの曲だろう。イギリスでは「Auld Lang Syne」なんて題名で、元はスコットランド民謡だったわけだし。そうか、そんな軍楽隊も奏でていたのか。でも、これは意気高揚とする曲ではない。むしろ、出港の際の別れを惜しむという意味合いだったのかな。戦場に行って帰ってこられないかもしれないことを考えるとこんな曲流して感慨無量なのか。
 と、その時、源太のポケットの携帯電話が呼び鈴を鳴らした。ポップの音楽の着信音が聞こえた。
 おかしいな、電源はさっき切ったはずなのに、と思いながら、まずいことになったと想い携帯電話をポケットから取り出した。
 待ち受け画面には、かけてきた相手も番号も表示されない。「非通知」とも表示されない。どこからなのかと思ったが、とりあえず、スイッチを押し通話状態にした。
「もしもし」
と話しかけた。艦橋でじっと立ったままでいなければいけないのに電話を取っている状態になるとは気まずいなと思ったが、大事な電話かもしれない。これで最後の曲だし、こんな式典しぶしぶ出たのだから、構うもんかと思った。
 携帯電話からは何も反応がない。誰の声もしない。いや、何か音が聞こえる。音楽だ。そして、それは今、ここで流れている音楽と似ているような。「蛍の光」を。え、ということは、この近くにいる者が、この音楽をかけているのか。誰が。
「もしもし、誰ですか」
ともう一度声をかける。言葉の反応はなく、蛍の光の演奏が聞こえるだけだ。
 源太は、周囲を見渡した。きった、誰かが自分の反応を見たくて電話をかけてきたに違いない。からかうことが目的か。誰だ、どこにいるのか、と思い見つけようとするが、ふと変な感じがした。
 周囲の様子が、さっきとはうって変わっている。音楽演奏は、そのままだが、しかし、周囲の様子が。そうだ、この船、動いている。え、そして、岸からどんどん離れている。周囲の風景も海がどんどん広がり、さっき見たものとは違う。船尾の旭日旗の背後に見えていた住宅地が広い海面に変わっている。陸地がどんどん遠くになっている。
 そんな、三笠は記念艦で固定された船なんだから。動いた船に強い風、何だか冷たい風、まるで初夏から真冬になったような寒さだ。船尾側の艦橋に立っていることには変わりないのだが。ここは、ここは、さっきまでいた横須賀の三笠公園ではない。いったいどこだ? それにどうして、この船は動いているか。それに煙の匂いが。まるで石炭の煤のような、いったいどこからそんな匂いが。

 
第4章へつづく。

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by masagata2004 | 2010-07-27 23:34 | 自作小説 | Trackback | Comments(0)


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