自作小説「北京の恋」 第5章 我 喜 歓 イ尓
北京を舞台とした短編恋物語。筆者の実際の体験を基にしたストーリー。
まずは序章から第4章をお読み下さい。
学院を二人は出た。雅夫に取っては数日ぶりの外出だ。缶詰にされた状態から脱出して、外の空気を吸う。すがすがしく空気を吸おうかと思ったものの、反日感情がうずまく外の世界。むしろ、さっと緊張感が込み上げ、体がたじろんだ。
「行きましょう。さ」
と王老師が微笑みながら言う。それで急に緊張がほぐれた。そうだ。今日は彼女とカップル、愛人になるのだ。雅夫は、ふと訊いてみたくて言った。
「僕たち、これからカップルになるんだけど、いつも王老師と呼んでいるけど、下の名前は何と言うんだい?」
「ああ、教えてなかったわね。紅玲(ホンリン)と言うのよ」
と王老師は答えた。
「紅玲って呼んでいいわよ。私もあなたのことを雅夫(ヤフ)と呼ぶから」
何だかとてもいい雰囲気になってきた。反日感情のことなど気にならなくなった。
二人は北京市都心行きのバスに乗り込んだ。バスに乗り込む。中は人でごった返していた。再び緊張が走ったが、紅玲が雅夫の腕を引っ張り、隅の方へ行く。二人で車窓を眺めることにした。会話はできない。雅夫の日本語か、下手な中国語を聞かれたら、周囲からどんな仕打ちを受けるか分からない恐怖を感じる。
バスはどんどん中心街へと進む。停車する度に通りは広くなり、大きな建物が視界に入ってくる。
そして、見覚えのある建物が見えてきた。テレビで中国の北京というと必ず、その象徴として映される場所だ。
紅玲が、雅夫を引っ張りバスの出口に向かわせる。お金を払い、外に出た。
ここは「天安門広場」だ。思った以上に広い場所だ。故宮博物院(紫禁城)に入るための天安門とその周辺の大きな広場。ただだだ広い。中国の首都、北京を象徴する名所だ。バスを降りた歩道から向かいの天安門までは、数百メートルの幅を有する広い道路がある。
地下道を渡って、天安門広場に着いた。目の前に巨城がそびえ立つ。赤い壁面に黄金の屋根。門もとても高い。二人で中へと入っていく。雅夫はぞくぞくとした。
すぐに大きな広場に来た。だが、ここは単なる広場であった。制服を着た人民解放軍と呼ばれる数十人の兵士達が同時に走り点呼を取っていた。何だか、緊張する場面だ。
「さ、あそこに入場券売り場があるわ、行きましょう」
と紅玲が数百メートル先を指さす。観光客らしき人々が列をなしている場所が見えた。目的の故宮博物院に入るための入場券を買う場所だ。
かつて紫禁城と呼ばれた「故宮博物院」に入る。そこは別世界であった。古典の世界に入ったような感覚を覚える。白い石畳の広場を黄金色の屋根の宮殿が取り囲む。実に荘厳な姿だ。
紅玲とゆっくりと進みながら眺める。雅夫は、この紫禁城の歴史をよく知っていた。学校で中国の歴史として習ったことがある。中国の明の時代から清の時代まで実際に皇帝が住んでいた場所だ。日本で言えば「皇居」に当たる。そして、皇居並に広く、数多くの宮殿が連なって佇んでいる。五世紀に渡り皇帝達が過ごしたところなのだ。しかし、二十世紀初頭に清朝が滅亡し皇帝は紫禁城を追われることとなる。映画「ラスト・エンペラー」では、その中国清王朝、最後の皇帝「溥儀」の人生とその時代の世相が描かれていた。そして、その中ではもちろんのこと、その溥儀を利用して中国侵略を目論む日本軍の姿も。
「さあ、どんどん進みましょう。ここは広くてゆっくりしていたら、何も見られないわ」
と紅玲は微笑んで言う。彼女の微笑みは、この美しい場所にとてもお似合いだった。まるで映画女優とデートしている気分にさせる。
故宮は、実に広い。宮殿を通り過ぎると、また新たな宮殿。そして、宮殿の中には庭園も見られる。各宮殿の庭園は個性的であり、木々が植えられ、面白い形の岩も置かれ、実に面白い。建物から歩きながらそんな庭園を眺められるように回廊が備え付けられている。
宮殿の中には、かつて皇帝が執務や謁見をした部屋や、生活に使っていた道具や調度品、美術品などが展示されていた。どれも目を見張る。歴史の重みを感じさせる。
紅玲は、さっさっとツアーガイドのように故宮を案内する。現地人らしく、知り尽くしているような足取りだ。見ているだけで気持ちが一杯になり、言葉が出てこない。発せる言葉は「美しい」だけだ。中国語では「ピョーラン」と言うらしいが。
約三時間、圧倒された時間を過ごした。気が付くと、出口にいて故宮の外の大通りに出ていた。こんな美しい場所を訪れたのは生まれて初めてだ。三時間ではとても足りるものではない。その上、これで彼女と過ごせる時間も終わりなのか。
幻想の世界から一挙に現実の世界に引き戻された気分になった。
「ねえ、この故宮を上から眺めてみない。あの丘の上に上がれば全体が見えるわよ」
と紅玲が指差す方向を見ると、小高い山が目の前にそびえる。その頂上に四阿のような建物がある。なるほど、あそこからなら、広い故宮全体が眺められる位置だ。
二人は、小高い山のある景山公園へと通りを横切り向かった。公園の入り口門を抜け、山を駆け登っていく。
頂上の「万春亭」という四阿風の建物に着いた。柱が区切るだけの四方の視界から、北京全体の景色が眺められる。
そして、目の前の故宮の景色。黄金色の宮殿の屋根が連なる紫禁城の全景。さっきまで三時間の間、歩き回っていた広い場所が視界にすっぽり収まってしまう。高いところから眺めているのだから当然といえば当然だが何だか不思議な気分になった。
だが、全景は中にいた時以上に美しさの衝撃を感じさせる。美しすぎる。そう言いたくなるぐらいの美しさだ。
「どうだったかしら、北京といえば、何と言ってもここよね」
と紅玲が雅夫の感動のにじみ出る表情を見ながら得意気に言った。
「ああ、本当にすばらしい。こんなところが、この世に存在するなんて信じられない。東京から飛行機三時間で来られるんだ。日本には、こんな美しいところはない。まさにピョーランだ」
雅夫の言葉に紅玲はとても嬉しそうな笑顔で応えた。その笑顔が、雅夫の心を激しく揺さぶる。反日デモが始まってからここ数日、不安で打ちのめされた気分の中、彼女の笑顔だけが救いであった。
美しい故宮の景色に、この美しい彼女の笑顔。雅夫は、いけないと思いながらも、思わずその気持ちを抑えることができなくなった。
「美しいのは故宮だけじゃない。君もだ」
紅玲の表情が、とたんに変わった。緊張した面持ちになった。だが、雅夫は続けた。
「紅玲、我 喜 歓 イ尓(僕は君が好きなんだ。)」
第6章へつづく。
まずは序章から第4章をお読み下さい。
学院を二人は出た。雅夫に取っては数日ぶりの外出だ。缶詰にされた状態から脱出して、外の空気を吸う。すがすがしく空気を吸おうかと思ったものの、反日感情がうずまく外の世界。むしろ、さっと緊張感が込み上げ、体がたじろんだ。
「行きましょう。さ」
と王老師が微笑みながら言う。それで急に緊張がほぐれた。そうだ。今日は彼女とカップル、愛人になるのだ。雅夫は、ふと訊いてみたくて言った。
「僕たち、これからカップルになるんだけど、いつも王老師と呼んでいるけど、下の名前は何と言うんだい?」
「ああ、教えてなかったわね。紅玲(ホンリン)と言うのよ」
と王老師は答えた。
「紅玲って呼んでいいわよ。私もあなたのことを雅夫(ヤフ)と呼ぶから」
何だかとてもいい雰囲気になってきた。反日感情のことなど気にならなくなった。
二人は北京市都心行きのバスに乗り込んだ。バスに乗り込む。中は人でごった返していた。再び緊張が走ったが、紅玲が雅夫の腕を引っ張り、隅の方へ行く。二人で車窓を眺めることにした。会話はできない。雅夫の日本語か、下手な中国語を聞かれたら、周囲からどんな仕打ちを受けるか分からない恐怖を感じる。
バスはどんどん中心街へと進む。停車する度に通りは広くなり、大きな建物が視界に入ってくる。
そして、見覚えのある建物が見えてきた。テレビで中国の北京というと必ず、その象徴として映される場所だ。
紅玲が、雅夫を引っ張りバスの出口に向かわせる。お金を払い、外に出た。
ここは「天安門広場」だ。思った以上に広い場所だ。故宮博物院(紫禁城)に入るための天安門とその周辺の大きな広場。ただだだ広い。中国の首都、北京を象徴する名所だ。バスを降りた歩道から向かいの天安門までは、数百メートルの幅を有する広い道路がある。
地下道を渡って、天安門広場に着いた。目の前に巨城がそびえ立つ。赤い壁面に黄金の屋根。門もとても高い。二人で中へと入っていく。雅夫はぞくぞくとした。
すぐに大きな広場に来た。だが、ここは単なる広場であった。制服を着た人民解放軍と呼ばれる数十人の兵士達が同時に走り点呼を取っていた。何だか、緊張する場面だ。
「さ、あそこに入場券売り場があるわ、行きましょう」
と紅玲が数百メートル先を指さす。観光客らしき人々が列をなしている場所が見えた。目的の故宮博物院に入るための入場券を買う場所だ。
かつて紫禁城と呼ばれた「故宮博物院」に入る。そこは別世界であった。古典の世界に入ったような感覚を覚える。白い石畳の広場を黄金色の屋根の宮殿が取り囲む。実に荘厳な姿だ。
紅玲とゆっくりと進みながら眺める。雅夫は、この紫禁城の歴史をよく知っていた。学校で中国の歴史として習ったことがある。中国の明の時代から清の時代まで実際に皇帝が住んでいた場所だ。日本で言えば「皇居」に当たる。そして、皇居並に広く、数多くの宮殿が連なって佇んでいる。五世紀に渡り皇帝達が過ごしたところなのだ。しかし、二十世紀初頭に清朝が滅亡し皇帝は紫禁城を追われることとなる。映画「ラスト・エンペラー」では、その中国清王朝、最後の皇帝「溥儀」の人生とその時代の世相が描かれていた。そして、その中ではもちろんのこと、その溥儀を利用して中国侵略を目論む日本軍の姿も。
「さあ、どんどん進みましょう。ここは広くてゆっくりしていたら、何も見られないわ」
と紅玲は微笑んで言う。彼女の微笑みは、この美しい場所にとてもお似合いだった。まるで映画女優とデートしている気分にさせる。
故宮は、実に広い。宮殿を通り過ぎると、また新たな宮殿。そして、宮殿の中には庭園も見られる。各宮殿の庭園は個性的であり、木々が植えられ、面白い形の岩も置かれ、実に面白い。建物から歩きながらそんな庭園を眺められるように回廊が備え付けられている。
宮殿の中には、かつて皇帝が執務や謁見をした部屋や、生活に使っていた道具や調度品、美術品などが展示されていた。どれも目を見張る。歴史の重みを感じさせる。
紅玲は、さっさっとツアーガイドのように故宮を案内する。現地人らしく、知り尽くしているような足取りだ。見ているだけで気持ちが一杯になり、言葉が出てこない。発せる言葉は「美しい」だけだ。中国語では「ピョーラン」と言うらしいが。
約三時間、圧倒された時間を過ごした。気が付くと、出口にいて故宮の外の大通りに出ていた。こんな美しい場所を訪れたのは生まれて初めてだ。三時間ではとても足りるものではない。その上、これで彼女と過ごせる時間も終わりなのか。
幻想の世界から一挙に現実の世界に引き戻された気分になった。
「ねえ、この故宮を上から眺めてみない。あの丘の上に上がれば全体が見えるわよ」
と紅玲が指差す方向を見ると、小高い山が目の前にそびえる。その頂上に四阿のような建物がある。なるほど、あそこからなら、広い故宮全体が眺められる位置だ。
二人は、小高い山のある景山公園へと通りを横切り向かった。公園の入り口門を抜け、山を駆け登っていく。
頂上の「万春亭」という四阿風の建物に着いた。柱が区切るだけの四方の視界から、北京全体の景色が眺められる。
そして、目の前の故宮の景色。黄金色の宮殿の屋根が連なる紫禁城の全景。さっきまで三時間の間、歩き回っていた広い場所が視界にすっぽり収まってしまう。高いところから眺めているのだから当然といえば当然だが何だか不思議な気分になった。
だが、全景は中にいた時以上に美しさの衝撃を感じさせる。美しすぎる。そう言いたくなるぐらいの美しさだ。
「どうだったかしら、北京といえば、何と言ってもここよね」
と紅玲が雅夫の感動のにじみ出る表情を見ながら得意気に言った。
「ああ、本当にすばらしい。こんなところが、この世に存在するなんて信じられない。東京から飛行機三時間で来られるんだ。日本には、こんな美しいところはない。まさにピョーランだ」
雅夫の言葉に紅玲はとても嬉しそうな笑顔で応えた。その笑顔が、雅夫の心を激しく揺さぶる。反日デモが始まってからここ数日、不安で打ちのめされた気分の中、彼女の笑顔だけが救いであった。
美しい故宮の景色に、この美しい彼女の笑顔。雅夫は、いけないと思いながらも、思わずその気持ちを抑えることができなくなった。
「美しいのは故宮だけじゃない。君もだ」
紅玲の表情が、とたんに変わった。緊張した面持ちになった。だが、雅夫は続けた。
「紅玲、我 喜 歓 イ尓(僕は君が好きなんだ。)」
第6章へつづく。
by masagata2004
| 2007-07-28 19:29
| 自作小説
|
Comments(2)
Commented
at 2007-08-18 01:04
x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
masagata2004 at 2007-08-19 14:05
小夏さん、ありがとうございます。訂正しました。もう長く勉強していなかったので忘れていました。
0
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